注79. 村社会の日本社会

村社会とは、ある社会の構成員が、他のほとんどの構成員を個人として識別でき、構成員同士で、相互の認識に基づいて、社会活動を営むことができる関係が成立する社会をいいます。大都会では、個人同士は互いに面識がなく、個人同士の間には共有できる特徴がないことを仮定して、全く関係のない人間同士として活動するのが、普通です。そのような活動の仕方は、「村社会」を前提とした環境では、「よそよそしい」と感じられ、親近感を損ないます。

特に、互いに認識できる個人同士の間では、個人の間にある共通の理解に関する物事については、共有できる文脈として、それらの問題について、あえて情報交換する必要はありません。そうでない人間関係を前提とする人間同士の間では、共有できる文脈がない人間同士の間では、共有しなければならない情報は、可能な限り事前に明確にして、お互いに確認し合っておく必要があります。米国の社会では、契約書に考えられる全ての例外事例を羅列する習慣がありますが、日本社会では、契約書には重要なこと以外の例外は、書かれません。これは、契約する当事者間で共有する文脈が多いので、書く必要がないと考えられるからです。

そのような村社会では、その社会の構成員である個々の人々には、できること、やって良いこと、言って良いこと、言ってはならないこと、など、活動の内容や、行動の仕方に制約がかかると言う、個人の活動の不自由さが生じます。それだけ、個々人の、活動の自由度は、小さくなります。そのことが、その社会全体の調和を生み出す傾向があります。米国社会では、そのことを見て、日本人は「チームワーク」を重視していると評価します。それは、稲作を中心にしていた日本社会の長い歴史の中で、互いに助け合って生きなければならないことに慣らされてきた結果だと、考えられています。

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